耳のないパンを焼く41の方法。

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「自分に起こること全てが良い学び系」の人には想像力と配慮が欠けているんじゃないかなって話。

自分の身の上に起こる出来事には全て意味がある。エブリシング・イズ・必然。エブリシング・イズ・学び。そういった思想をお持ちの方は絶えない。そしてわたしは、その方たちには致命的に欠けているものがあると感じている。そんなお話をします。

世の中には起こらない方がいいことだってあるに決まっている。

例えば中絶とか虐待とか、想像に易いではないか。体験から学習するのが人間だから、そういう意味では「起こったこと全てが学び」は正しいかもしれない。けれど「虐待から学ぶこと」など十中八九ネガティブなものに違いない。そしてそれは「トラウマ」とか「認知の歪み」とか呼ばれるものでしょうが。要る?

「全ては必然学び系」の人たちは、世の中には不必要な出来事によって人生の安寧を奪われている人たちがいることに気づけていない。そういった人々がいるだろうと想いを巡らせる想像力が欠けている。気づいてるとしたら発言に配慮が欠けている。と最近のわたしは思っている。

彼らの大多数は安全なところで理想的な餅の絵を描いているだけで、手のひらにあるたったひとつの餅を喰うか喰われるかのデンジャラスゾーンには降りてこない。

メンタルが最高潮に削られるから「不必要な不幸の現場」に飛び込むのが得策とは思わないけど、そういう世界と同居していることをもう少し認識したらどうかなって、一部の方々の「発信」を見ているとときどき思う。

気持ちは分からんでもない。過去、物事の理解が一瞬で進むような、目の前がパッと明るくなるような瞬間はわたしにもあった。学び()によって気づき()が起こり、文字通り世界が変わるのだ。え?ほんと?こんな簡単なこと?こんなことで悩んでたの?え?うそ?え?え?みたいな。

その気づき()直後の世界はともかく素晴らしくやる気と希望と可能性に満ちている、ように見える。人間って素晴らしい、仲間ってステキ、行動あるのみ、夢は叶うはずフェース。だがしかし、すぐに次の気づきがやってくる。

人間は汚い。

不幸な人がいる。

救いようのない出来事は存在する。

あいつはいけすかない。

それが世の中である。

そうか。今は「全ては学び系」の人も、早かれ遅かれ残酷な事実に気づくのか。彼らはその過渡期にいるだけなのかもしれない。せめてなるべく多くの人が、過渡期であるとちょっとだけでいいから気づいてくれたらと思う。今の正解は絶対的なものではない。そのうち変わる。だからそこだけに一点集中リソースを捧げるのはリスキーではなかろうか。それも想像力。直接言わないのは配慮であり意気地のなさではない。断じてない。

大多数の人生において失望と希望は順不同で巡ってくる。幸福な自分と不幸な誰かはこの世に共存している。自分の幸福は誰かの不幸の上に成り立っているかもしれない。どうしようもなく自分が不幸だと感じる状況にいても、同じ世界に希望や幸福は存在している。

今の自分には見えていない世界があると、常に想像する力を持つこと。他の人の世界観に配慮すること。どんな説を唱えるときだって、想像力と配慮は必要なのだ。

知らんけど。